このままで済むと思うなよ

 うわーもう年の瀬だーと言っておりましたら大晦日です。おそろしいですね。
 例年わりと勤勉に帰省しておりまして、ちゃんと一家そろっていたのですがこのご時世でこの年末年始は東京におります。じんわりとしょんぼりします。仕事は納まっていません。大変だ。年明けても『ミセス・ノイズィ』やってるかしらん。NHKドラマの岸辺露伴はたいそう良かったですね! 『スパイの妻』といい、今年は最高の高橋一生が続けて観れて満足です。
 あまり振り返ろうという気がしない2020年なのは、流行り病が一段落するどころかますます猖獗を極める状況だからでしょう。野次馬根性むき出しで云うならば、当分覚えている年になるとは思います。

 ここんとこずっと年2冊ペースで単行本出せていたのに、今年はいろいろあって出せずじまい。あーあー。干されたとかそういうわけではありませんのでご安心ください。仕事自体はありがたいことにたくさん頂いております。単行本も来年は挽回できるはず。

 掲載からちょっと経ちましたが「楽園」のweb増刊で読み切りショート「墓が戦車でやってくる」を描きました。見てね見てね。典型的ワンアイデア漫画だけど面白いですよ。

hakusensha.tameshiyo.me



 第二次大戦の独ソ戦に従軍した、かつてのソ連軍女性兵士たちのインタビュー集、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』の小梅けいとさんによるコミック版2巻が出ています。僕もちょっとお手伝いしています。
 2巻は女性兵士がどう思われていたか、また自らの体験を語ること、訊くことについて踏み込んでいきます。1巻に引き続き、よろしくお願いいたします。

www.kadokawa.co.jp



 それでは、本年も本当にお世話になりました。皆様どうぞ良いお年をお迎えください。良い年にしますよ。しますともさ。

f:id:rasenjin:20201231234105p:plain

 

観るものを試す映画でした

 ということで、もうちょっと間を置くつもりだったのですが観てきましたよセルゲイ・ロズニツァ監督の『国葬』。圧倒されました。

www.youtube.com

 1953年3月、スターリンの葬儀とソ連全土で行われた追悼集会の記録映像を編集したもの。この記録自体の存在は知っていたので、いつか観たいものだと思っていました。
 『粛清裁判』は進行していく裁判というわかりやすいストーリーがあるのですが、『国葬』はそのときの情景をひたすらに追っていくのみ。より「これは何だろう」と観客の側から能動的に食いついていく、解釈することが求められます。

 とにかく人、人、人。
 市井の人であろうが要人だろうが、いま写っているのが誰なのか一切説明はありません。安置されたスターリンの遺体に別れを告げようと、葬儀会場は長蛇の列です。さながら万博の大人気パビリオンのごとく、国家指導者級でなければ遺体の前で立ち止まることはできません(金の肩章をきらめかせた将軍たちもひと山ナンボです)。
 老若男女、社会的地位の高そうな人物から粗末な身なりの農民まで。みなこの場にふさわしく、粛然とした表情。泣いている者も多い。演技ではなさそうです。とはいえスターリンを敬愛する涙か、時代の区切りから自分の人生を思って泣くのか、それをうかがい知ることはできません。人はさまざまな事情で泣きます。
 延々と続く参列者の中で、十字を切る老婆が一人だけいました。オペラグラスを持ち込んだおっさんもいる。あれは確実に物見遊山気分だろう。やッ、くわえタバコがいるぞ、不敬だ! 肩をふるわせる赤軍の英雄ロコソフスキー(当時はポーランド防相でしたが、赤軍の制服で参列したかったのでは)。ロシア正教会の高位聖職者たちもしおらしく登場します、しかし十字は切らないのね。
 ソ連は広いです。ウクライナ西部のリヴォフから中央アジア、極東に至る都市や工場や農場で黒山の人だかりで追悼集会が開かれます。リトアニアの場面に映る人は、何を考えているのだろう?

 荘重に荘厳にと演出を心掛けているのでしょうけど、超大国の指導者、神格化された親玉の葬儀にしては奇妙な活気や不協和さが感じられます。
 赤の広場の軍事パレードのように、リハーサルをくり返すことができず一発勝負のイベントということはあるでしょう。レーニンが死んだのは30年前のことであり、当時の式次第は役に立ちますまい。
 表情はどれだけ悲痛でも、どやどやと長蛇の列をなして人が押し寄せると場はにぎやかになります。このソ連は確実にプロレタリアの国だ。画面の隅に映る警備兵が雑談の合間で何やら笑っています。葬儀をスケッチする画家たちの顔は職業的熱心さに満ちていてあまり悲しげではない。追悼集会で熱を込めて演説する工場幹部の向こうでは、街を普通に行き交うトラックや路面電車。棺を持ち上げる党幹部たちの、統制に欠けたどっこいしょ感。棺を砲車に移すときは警備兵たちが「そっちをこうしてあっちをこうして」と身振り手振りを加え忙しげ。しかし、このときのベリヤはマフィアのボスみたいな服装で、小粋にマフラーを巻いたりしてあまりフォーマルな感じがしません。
 それにしてもモスクワの葬儀を筆頭に全土で行われた追悼集会、イベントを進行させる現場責任者やスタッフはさぞ大変だったでしょうし、面白い仕事だったのではないかしら。
そういえ冒頭、スターリンの棺が葬儀会場へ運び込まれる場面は実に事務的でした。そこをちゃんと撮影しているのも面白い。

 葬儀のクライマックス、棺がレーニンスターリン廟に収められた瞬間弔砲がとどろき、駅や港や工場では汽笛が、サイレンが鳴り響きます。バスは止まり僻地のトラックも路肩に寄り労働者たちは作業の手を止め脱帽し黙祷します。ソ連のすべてが祈りを捧げているようで、この場面には荘厳さがありました。もちろん、それを撮影する人はいたわけですし演出です。水力発電所の建設現場、クレーンに吊るされるスターリンの肖像と赤旗のディスプレイを思いついた人、会心の見せ方だったでしょうけど、そのセンスはどうかと思うで。

 カメラがとらえていないものは多いです。無数にあった強制収容所ではどうだったのか、葬儀や集会を支える裏方たちは何をしていたのか、モスクワの葬儀会場付近では参列者が将棋倒しとなり多くの犠牲者が出ているのですが、その気配もありません。レーニンスターリン廟のなかが映されないのは、別格の聖地であることをうかがわせます。
 だからといってスクリーンに映るものが演出だ、虚構だというのもまた違いましょう。むしろ虚構を超えてしまった、巨大でモゾモゾしたものが横たわっているようでした。

 上映中にもう一度は観に行きたい。スクリーンで観るべきドキュメンタリーです。

 パンフレットは必ず買いましょう。特にソ連社会主義諸国の指導者の顔なんてよく知らないという、真っ当なあなた。

ところでレーニン廟ってけったいな建築で、ピラミッドを意識したなどと伝えられますが、聖なる墓所の上を指導者のひな壇にしようと思いついた人はなかなかたいした発想の持ち主です。いやがうえにもわかりやすい象徴性ではあるものの、聖地の上に靴底を並べるのは不敬だと誰も思わなかったのかしら。

ある映画について。Twitterでは足りないので

 既に各所ではお知らせしています通り、『大砲とスタンプ』9巻の発売日が来年の2021年1月に延期となっております。お待たせして大変申し訳ありません。もうちょっとだけお待ちください。そのかわりといってはなんですが、分厚いですよ!

 結論を出すにはまだひと月ありますが、2020年の映画暫定ベスト3は『異端の鳥』『エクストリーム・ジョブ』『スウィング・キッズ』あたりかなー。『ウルフウォーカー』『はりぼて』『悪人伝』がそれに続く感じです。韓国映画強いですね。
 と思っていたら、案の定というかこれはと楽しみにしていた作品にガツンとやられました。ドキュメンタリーだから扱いは別にするべきかもしれませんが……はい、セルゲイ・ロズニツァ監督の「群衆」三部作から『粛清裁判』です。

www.youtube.com



 『粛清裁判』は1930年のソ連で行われた「産業党裁判」を記録した映画を再構成したもの。ソ連産業・経済界の中心にいた技術者や研究者がフランスに通じ、サボタージュや政府転覆を企てたとされる事件で、まったくのでっち上げであることがわかっています。この事件を扱う最高裁判の様子が淡々と写されるのですが、そこでは異様な光景が続きます。

 公開で行われる裁判はまさにひとつの芝居であり、実際に審理は傍聴者の前……それもステージ上で進められます。しかし、この見世物の演出はいわゆる人民裁判的なものからはかなり遠い。

 まず被告たち、まったく無実の罪でこの場にいる彼らは、淡々と無表情に、しかしはっきりした声で自分たちの罪を認め荒唐無稽な陰謀を語ります。思わず北朝鮮張成沢のように、暴行されたあとがないかスクリーンに目を凝らしますが少なくとも見える範囲ではそのような形跡は見当たりません。

 会場を埋め尽くす傍聴者は興味しんしんといったていで聴き入っています。見せしめを前にした迎合やシニシズムの気配はない。それにしても「群衆」の名の通り、なんと多様な人々であることか。どんな理由で、なにを考えてこの場に足を運んでいるのだろう?

 裁判長はかの悪名高いヴィシンスキー。冷静かつ活力にあふれた判事という趣きで、てきぱきと審理を進めます。被告に対してもあくまで法に則って丁寧に接している……ように見えます。

 そう、なにもかもが落ち着き払っているのです。見せしめの熱狂はどこにもありません。傍聴者は居眠りもせず、ただ時おり私語やひそやかな笑みをもらす者がおり、この裁判に貴重な生気を与えます。いや、例外がありました。裁判を警備するOGPU(当時の治安機関です)たちは厳粛な場にふさわしくなく、なにやらだべり、笑い、タバコをふかす。この場のからくりを知っている支配者の態度というふうでもない。不思議です。

 盛り上がりに欠ける裁判が急に表情を変えるのは検察側の最終論告。検事クルィレンコは怒号し大仰な身振りで被告たちを非難し社会主義の防衛を叫び(この裁判は革命からわずか13年後のことなのです)、全員に銃殺を求刑します。ここは我々が想像する、まさに見世物。いよッ千両役者!

 続いて被告の最終弁論。すべてが何度も推敲を重ねた脚本にそっていた裁判に、わずかなアドリブが加わります。罪を悔い、法廷に従うことを誓い、自分と同じような者が出ないよう警告し、そして助命されるなら残りの人生すべてをソ連に奉仕する……。

 まったくの虚構で訴えられ、奇天烈な陰謀を語るよう強制され、しかも銃殺を求刑されたならばどんな手練手管を使えば助かるのか? この裁判で唯一本当なのが、被告たちの助かりたいという心情でしょう。ここには脚本をわずかに逸脱した、仮面ではない表情があったように思います。

 どのような判決がくだされたかは、この映画を観るなり産業党裁判について調べるなりしてください。1937年の大テロルよりはよほどにやさしいと感じたのは、比較対象が酷すぎますね。
 ところでスターリンの斧は万人平等に降りかかったものでして、もっとも熱烈で無慈悲なボリシェヴィキを演じた検事クルィレンコも後年処刑されています。諸行無常

 とにかく顔、顔、顔が印象的な映画でした。顔といえばエイゼンシュテインですが、こちらには彼の大胆さが無いかわり、登場人物たちのわずかな表情に集中させるおそるべき記録映画でした。
 あ、1930年の服装やOGPUの制服にも目が行きましたよ。これだから!

 『国葬』も近々観ます。いやがうえにも楽しみです。

 この絵は先日参加したコミティアのポップ用に描いた謎のメイド娘さん。ゲーム中盤に登場するそこそこ強い敵みたいなイメージです。
 こんな感じの絵、ひさしぶりに描いた気がします。いかんなあ。

f:id:rasenjin:20201128224024j:plain

 

 

お知らせですよ

f:id:rasenjin:20200923214659j:plain

 

 はい『大砲とスタンプ』がついに最終回です。今日発売のモーニング・ツーに載っています。大団円ですよーよろしくよろしく!


 単行本作業に入りつつあるので、まだまだ終わったという感慨はないのですけども。そもそも、これで暇ができるかなと思っていたら全然そんなことないよ! 困るよ! 極度に横着な自業自得なのです、わかってますハイ……。
 単行本、最終巻となる9巻は11月発売予定です。がんばれー。

 ベルンハルト・ケラーマン『トンネル』(国書刊行会)のカバー絵を描かせてもらいました。1911年に書かれた、大西洋に鉄道トンネルを掘る巨大プロジェクトを舞台にした土木工事SFです。工事そのものの描写もさることながら、資金調達のゴタゴタや世界中から集った労働者たちの人間模様が魅力的です。
 しかし国書刊行会さんの本で表紙とは。昔の自分に自慢したい!

www.kokusho.co.jp

 そして表紙絵を使ったクリアファイルプレゼント企画をやっています。応募は10月いっぱいとなっております。僕の絵でクリアファイルって、ひょっとしたら初めてなのでは。前にもやったかしら。ともあれこちらもよろしくよろしくです。

www.kokusho.co.jp

安倍首相辞めはりますか

 ひさしぶりのネタが安倍総理辞任というのはどうなのよ、とは思いますが、せっかくの任期最長政権なのだし遠慮してもなんだし、自分の整理がてら書きましょう。

 理想と現実のギャップがあまりに大きく、埋めることができなかった首相でした。
 「日本を取り戻す」「政治は結果責任」を主張する保守でナショナリストでタフな指導者。それが見せたい姿だったのでしょう。僕も本当に目指す目標についてはあきらめない、油断ならぬ執念深さを持っているという評価でした。

 どっこい、振り返ってみれば調整型、それも自分と利害と世界観の一致する狭いサークルを好む安定志向の人物だったように思います。繊細で気配りができるということでもありますが、残念ながら度量がおそろしく狭かった。自分に自信を持って突破するタイプではないのでしょう。
 財政出動にある程度積極的だったことや、いち早くトランプ大統領に仁義を切りに行ったのは大筋では良かったと思います。最低賃金の値上げは素晴らしい。これはトートロジーにもなりますが、終始ふらついていた民主党政権(そして第一次安倍政権以降の短命な自民党政権)を目の当たりにしていた国民にとって、なにより安定していた事自体が評価されたのでしょう。あと昭恵夫人を徹底的に守る姿は好感を持ちました。あれには嘘がない。

 一方で沖縄県との具体的な交渉は拒否し、内閣の最重要課題と位置づけた拉致問題北方領土問題はいっとき熱心に動きながら途中で急に放りだす。女性活躍と地方創生は鳴かず飛ばず。本人がいちばんやりたかったであろう憲法改正も(とはいえ改正自体が目的で、良かれ悪しかれ本人に確固たるイデオロギーがあるようには見えません)、あれだけの議席を持ちながら結局動かすことができなかった。改憲派にとっては重大でしょう。景気判断をごまかしながら消費税増税を決断……いや、既定路線を覆すこともできませんでした。
 説明を拒否し、利害が対立する相手との交渉も避け、問題が存在することを認めないことで問題化させない。重大な政策判断がどのように行われたのかどのような意図があるのか、現在はおろか後世からの検証も忌避する。菅官房長官が辣腕をふるうことでとみに強まった官邸の権力が、政策の実行ではなく政権を守ることに使われる……。
 この不誠実さ度量の狭さが長期政権たり得た要因のひとつだと評価され、後継の内閣に前例として踏襲されることをいちばんに案じます。

 タフなリーダーを演じた任期最長政権の割には、結果に乏しい。繰り返しになりますが、安定自体に価値があったと評価される政権だったのでしょう。Twitterではブレジネフという比喩を見かけました。
 国難を叫び政治は結果責任と見栄を切った首相が、本物の国難のさなか官邸を去ろうとしています。おつかれさまでした、と言うのはかえって嫌味になりますね。悪人ではなかったと思います。むしろ身内を大事にし、小心で評判を気にするおとなしい人物でした。ここで退陣するのもおそらく本当に無念で逃げではありますまい。
 難病で辞任するのは安倍さんにとっても、審判を経ないという点で今後の日本にとっても不幸なことでした。ゆっくり養生し、勇気を持って8年間の検証に相対してもらいたいです。

 安倍政権の問題点の多くが北方領土をめぐる日露交渉に現れていたと思います。専門家を交えない狭いサークルでの意志決定、世界観を共有せず利害が対立する相手との交渉下手、重大な問題にも関わらず説明を拒否すること、などなど。もちろんそれだけの本ではないですが、安倍政権を検証する上で読みどころの多い一冊。お薦めです。

www.hanmoto.com

 安倍政権で表面化した公文書管理のずさんさ。長年の慣行や、小さな局面では合理的だったりして安倍首相ひとりの責任に帰することはできませんが、その適当さをおおいに利用し助長してきたのも確かです。遅まきながらアーキビストの育成に乗り出したのは評価するので、今後の政権はどんどん金と人を突っ込んでいただきたい。行政の基礎がおそろしくいい加減なことに唖然とする面白さで必読。

www.hanmoto.com

『戦争は女の顔をしていない』コミック版について、個人的補遺

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』の小梅けいとさんによるコミック版、1巻が先日発売となりました。僕も監修という形でお手伝いしています。多くの方に買って頂いているそうで、本当に嬉しいことです。

www.kadokawa.co.jp

 ところで、発売前から「コミック版は『可憐な女性兵士のけなげなエピソード集』『泣けて感動する話』として『消費』されてしまうのではないか」と危惧するご意見がありました。発売後もよくお見かけします。これはまったく正当な懸念です。

  漫画というのは情動を刺激するメディアであり、まさにそこが強みです。強調するにせよ抑制するにせよ、ほぼ全ての漫画家はそこに自覚的です。おそらく誰が描いても感動物語になり得るでしょう。
 そして、僕はこの作品で泣いたり感動したりエピソード集として楽しんでも別にいいのだろうと思うのです。自分の情動を止めることなどできますまい。僕も群像社版を読んで、まずそういう楽しみ方をしました。

  幸いにして、人は世界についてもうちょっと複雑な受容ができます。
 エピソード集として感動すること、それは自分の知っている物語の枠に分類し、世界観のしかるべきところに置いて安心する作業でもあります(「美少女戦争漫画だろう」にとどまる批判も実は同じことです)。
 もう一歩想像力を働かせて、どうか不安になって頂きたい。
 台詞はただの台詞ではない。元兵士たち、あの戦争、あの時代、あの国について我々がなにを知っているというのか。
 この本は理解するためのものではありません。理解していないことを知るための本です。そう簡単にわかってたまるものではないのです。僕なんかさっぱりわからないことだらけです(監修として問題発言)。

  単行本の解説でも触れましたが、小梅けいとさんの作画・作劇でなにより素晴らしいのはその想像力です。原著のごく短い証言から、あれほど豊かな描写をつむぎ出します。原著に感動して安心して理解したつもりで描けるものではない。手探りです。
 しかも、その結果が正しいわけではありません。
 想像力の例を提示しているのだ……と僕は思っています。

 なので、是非岩波から出ている原著も読んでください。近日中に電子書籍化もされるそうです。コミック版を参考にしつつ、あなたなりの解釈を出してください。元兵士たち、あの戦争、あの時代、あの国……いや、そもそも人というものについて、我々がなにを知っているというのか。

www.iwanami.co.jp

 我々はさまざまなメディアを通し、簡単に他人のことをわかってしまいます。わかってラベルをつけて、自分の世界観のしかるべきところに置いて安心してしまう。そう簡単にわかってたまるものではないのです。
 『戦争は女の顔をしていない』コミック版は、他人や社会のことを考える方法についてヒントをくれる、すごい作品なのですよ。

追記

 1巻にはまだ収録されていない第八話(原著の前書きに相当します)が、『戦争は女の顔をしていない』の読み方について大きな示唆を与えてくれています。是非是非。

 

 

 

ひさしぶりの更新が映画『T-34』のお話

 『T-34 レジェンド・オブ・ウォー』がロシア映画としては異例の国内ヒットを記録しているのだそうで、良いことです。景気がいい話はいいですね。

 

www.youtube.com


 しかし僕にとってこの映画は公平に見て凡作、好みを押し出すなら駄作でありました。映画館からの帰り道、怒りのあまりやよい軒でごはんをおかわり3杯頂いてしまったほどです。『ジョーカー』も激怒したので、激怒映画が連続してしまいました。それもまた映画と人生の醍醐味であります。

 さてさて、この映画のコンセプトはロシアでは数少ない、明朗な戦争冒険活劇です。僕も戦争冒険活劇は大好きだ。マイフェイバリットは『戦略大作戦』か『独立愚連隊西へ』か。コンセプトはおおいに結構なので、そこを踏まえて考えてみましょう。

 戦争冒険活劇として致命的に駄目だったところは主に二点。脚本……より正確にはキャラクターの雑さ。もうひとつは戦車に対するフェティッシュが中途半端であることです。

 『JOJOの奇妙な冒険』には設定の矛盾が多々あります。しかし登場人物の感情に矛盾はないのでアニメ化する際に脚本が書きやすい。そのようなことを言った脚本家の方がおられるそうですね。これです。『T-34』は登場人物の感情がブツ切れで、それゆえにドラマに没入できないのです。

 致命的なのがイェーガー大佐でしょう。モスクワ前面で戦える状態にない主人公を撃つ、収容所でヒロインに銃を向けるなど、卑劣漢として描かれます。それがクライマックスで突然決闘を申し込んでくる。そんなキャラでないはずでは? あそこは本当に冷めました。もし行動原理が変わるならそれ自体がドラマになるはずなのに勿体ない。
 主人公とクルーたちの関係も適当。ヒロインとのラブロマンスに至っては言語道断。

 監督にはブツ切れの見せたいかっこいい場面があるだけで、それらをどう準備して盛り上げていくかの観点がきれいに欠落しているのです。「これはこういうお約束なのだな」と観客に甘えているのです。いいから脚本打ち合わせに俺を今すぐに混ぜろ。

 たとえばドイツ側の中心人物を二人にするといいのです。卑劣な上官と、正々堂々と戦いたい武人キャラというように。もしくは卑劣だったイェーガー大佐が組織から切り捨てられてすべてを失い、主人公と戦うことで自尊心を取り戻そうとする……でも悪くありません。
 主人公も熱烈な愛国者というだけで、魅力ゼロです。ドイツ軍への敵愾心のあまり部下を人扱いしていなかったが、さまざまな困難をともにする過程で互いを尊重し合えるようになる……といったドラマもできるだろうに。

 ヒロインとの適当極まるラブロマンスは、なんですかあれは。21世紀の映画ですか。あれぐらいならヒロインを出さないほうが圧倒的によろしい。もしくは、せっかくドイツ語ができるのだから通信兵にしてT-34の無線担当にするといった見せ場もできたはずです。それでドイツ本国に迫る赤軍とコンタクトを……とかね。

 「主砲の弾は6発」というのも、緊張感のない見せ方しかできていません。ハラハラしない。ドラマになってないのです。荒木飛呂彦に同じシチュエーションをまかせたら、それはもう盛り上げてくれるでしょう。他にも……いやきりがない!

 脚本が雑でも、絵が良ければいくらでも挽回できます。それが映画というもの。
 とはいえ『T-34』は絵も実に中途半端で……フェティッシュがありません。スタッフは戦車の凶々しい魅力について考えてない。『プライベート・ライアン』のティーガー登場場面、あれがフェチの一例です。
 モスクワの戦いにおける歩兵との絡み、夜が迫る森を行く場面、村での戦い……いずれもフックに満ちた舞台なのに、妄想が足りません。戦いのフィールドとしか考えていない。

 車内の映像もよくないですね。実車を使った撮影が完全に裏目に出ていました。決まりきった構図ばかりで飽きます。せっかくCGを多用しているのなら、実車でカメラを置くことができない視点も見せてくれたら良いのです。
 メカの動きの快感なら、アニメに勝つのは難しいです。いっぽうで実写の利点は情報量。泥、砂塵、水、煙……足りませんでしたねー。

 そしてなにより残念だったのが、T-34の名を関した作品なのに、肝心のT-34にキャラ性が欠けているところです。松本零士なら戦車自体を戦友としてねっちり描いてくれることでしょう。『フューリー』の、暴力と怒りの象徴としてのシャーマンは素晴らしかった(『フューリー』はマイフェイバリット戦車映画です)。
 キャラ性を捨て去りどんどん使い潰すなら、それはそれで大変T-34らしかったでしょう。そこまで踏ん切りもできない中途半端さ。最後の決闘での壊れ方とか、戦車への愛がないよ愛が。たとえば収容所で防水カバーをはがしたら、モスクワで乗っていたあのT-34が……! とかだったらそれはもう燃えるじゃないですか。

 ハッタリが致命的に足りないとか他にもいろいろあるのだけど、だらだら書いてもなんなのでこの辺にしておきましょう。
 駄作です。意欲作であることは認め……と思ったけど、手癖で作ってそうなところも多いな。意欲作認定撤回。しかしながら商業映画として結果を出している。そこはたいしたものと言わざるを得ません。すごい。えらい。勝ちに不思議の勝ちあり。

 とにかく雑で、雑さをカバーする熱さやフェチにも欠けるというのがあらためての結論です。加点法でプラスするところが少ない。冒険活劇を舐めるな。この映画が勝負する相手はマッドマックスだぞ。

蛇足

 イェーガー大佐は敵ながら主人公に惹かれており、その関係性が良い……という解釈も拝見します。正しいのかもしれません。

 しかし! そうなると大佐の個人的趣味につきあわされた部下たちはいい迷惑ではないですか。大佐の人間性評価ダダ下がりですよ。そこで、ちゃんと部下を描いて大佐の行動を不審に思う・もしくは応援する……といった場面を挿入すると逆に生きてくるのに(『戦場のメリークリスマス』がいい例になります)。