五輪開会式を3日後にひかえての覚え書き


 本当は海外旅行に出るつもりだったのです。
 オリンピック、僕はそんなに敵意を持っているわけではありません。近年だとロンドン五輪の開会式はえらく面白かった。自分とこの君主をあんな扱いしてのける国はそうそうないよ。そらまあ資本主義とナショナリズムが合体した問題山積の怪物イベントではありますが。
 ただ、東京はもうやらんでええやろうと思っていました。誘致時のいかにもなプロモーションの数々も鼻についたものです。とはいえ開催が決まってしまったわけで、あらあらまあまあ。それならそれで仕方ない。どうぞ、ご自由にやってください。ただこちらも付き合う義理はない。東京を脱出してロシアかウクライナか、アルメニアキルギスか……と算段をめぐらせておりました。
 が。
 そのあとの世界のいち大事はご存知のとおり。ああもう。

 五輪はご自由にどうぞ。こちらは関わりません。
 そのつもりが、ああそのつもりがCOVID-19のせいでひとつ同じ屋根の下。強制的に関わり合いになってしまいました。

 2021年夏。COVID-19が猖獗をきわめるなかで本当にやるらしいですよ、五輪。
 この状況下、なぜやるんでしょうね? いろいろ憶測はできますが、結局いままで得心のいく説明はありませんでした。「人がバタバタ倒れようが五輪を遂行するのだ」ぐらいの気合いを見せてくれれば、少なくとも心意気は買ったでしょう。
 どうにも不思議なのです。東京都も日本政府も、この状況でなんとしても五輪を開催するという心意気が見えなかった。ロックダウンしてでも補償を大盤振る舞いしてでも五輪最優先、な主体性が無かった。自分たちにはどうしようもない、避け難い天災がやってくるのだから仕方ない……なぜ君らにはそれがわからんのだ、そんな諦めのようでした。
 奇妙な主体性やポリシーの欠如、全体の舵取りの不在はそこここに感じられます。決まったことだから、そういうことだから、できるだけ無難に、コンセプトのため理路を立てて守るわけでもなく非難が起こればおずおずと引っ込める、てんでばらばら。森前大会組織委員長は、その地位にふさわしい人物だったかどうかはさておき、少なくとも五輪に向けての主体性はあったように思うのです。
 まあいい。

 やめろとは言いません。実は五輪中止の署名はしましたけども。でも、この夏は止しましょうよ。楽しみにしている人も、危惧する人も、アスリートも皆が皆不満を持ってブスッとするばかりじゃよ。今年はCOVID-19対策に政策やリソースを集中できるよう、再延期で手を打とうではないですか。来年にすれば客も入れられる、皆の前で競技やイベントができる、インバウンドで稼げる、僕は開催期間中海外へ逃亡できる。

 ウン10年生きてきたなか、日本で起こった出来事で特にえげつないと心に刻まれている出来事がいくつかあります。オウムのテロ事件、東日本大震災……それに今回の東京オリンピックパラリンピックが追加されました。
 不条理です。しかも政府や公的な組織が主導した。COVID-19はなるほど避け難かったかもしれませんが、去年春の段階で2年延期論は出ていました。それを2021年夏と決めたのは前首相であり、彼はそのことについて省みることをせず、その後の政府・東京都・組織委員会は活力なくなんとなくの開催に進みます。
 なんとも居心地悪い日々が始まろうとしています。誰がどこへ向けて舵取りをしているのか。何をしたいのか。誰もグランドデザインを描いてないのではないか。そのうえ誰も舵を握っていないのではないか。しっかり観て、覚えておかねばならないけど、いやはや。